この時、何台かの高級車がゆっくりと近づいてきた。その中の一台はロールスロイスで結城理仁が乗っている車だ。その高級車を道の横に止めると結城理仁が車の窓を開けて傷のある男に大きな声で話しかけた。「隼翔、ここで何をしている?」 「車をとめて買い物してただけだよ。車に傷つけられちゃったけどな」 「車に傷つけた奴を捕まえなかったのか?」 結城理仁は本能的に言った。「車に傷つけた奴を探し出してやろうか?」 「いや、いいよ。その人の電話番号は教えてもらったから。車の修理が終わったら彼女に電話して弁償してもらうさ。ここ東京で東隼翔から逃げられるわけないだろ」 東隼翔は車に戻るとすぐに車のエンジンをかけ結城理仁に言った。「行こう」 結城理仁はそれを聞いてそれ以上何も言わずに車の窓を閉めた。そしてすぐに数台の高級車が連れ立って走っていった。 一日が過ぎるのは本当に早かった。 あっという間に夕方だ。 高校生が夜の塾帰りに本屋に立ち寄る時間を過ぎてから、内海唯花はキッチンで明凛と一緒に夜ご飯を食べるつもりだったが、姉から電話がかかってきた。 「唯花ちゃん、お姉ちゃんね、一日悩んだんだけど、正直言ってもうどうしようもなくて、あなたにお願いするしかないみたい」 「お姉ちゃん、どうしたの?」 「今日午前中にショッピングに行ったんだけどね。陽を連れてベビーカーを押してる時にうっかりマイバッハにぶつかっちゃって。あんな高級車ちょっと修理しただけでもかなりの金額になるでしょ。見積もってみたけど、私のへそくりじゃお金が払えるかどうか。夫には相談したけど、怒られて何も言ってくれないの。私が招いたことだから、自分で解決しろって言われたわ」 それを聞いて内海唯花は心が締め付けられた。「お姉ちゃん、大丈夫よ。その車の修理代はいくらかかるの?」 「まだ分からないの。車の持ち主に私の電話番号を伝えてあるから、修理が終わってから彼から電話がかかってくるわ。それから弁償する」 「お姉ちゃん、陽ちゃんも二人とも無事ならそれでいいよ。修理代がいくらかかっても私達で払いましょ。私がお金を貸しておくから、心配しないでね」 佐々木唯月はむせび泣きしながら言った。「唯花ちゃん、お姉ちゃん本当にダメな人間よね。厄介事ばかり引き起こして」 「お姉ちゃん、わざとじゃない
結城理仁は何も言わなかった。 午前中、東隼翔の車に傷をつけたのは、まさか本当に彼のまだ会ったことのない義姉だとは。 「結城さん、もう遅いですし、私先に休みますね」 姉を慰めにいったとはいえ、自分も自信がなく内海唯花も心理的にダメージを受けていた。 彼女は結城理仁にそう言うと、自分の部屋へ帰っていった。 結城理仁は唇を開き何か言いたそうにしていたが、彼女はもう部屋に入ってしまった。 ベランダの花は......彼女が明日の朝、起きて気づけば自分できれいにするだろう。 しかし、結城理仁は少し心がスッキリしなかったのだ。まるで自分は良い事をしたから彼女から褒められるのを期待しているかのようだった。 「結城さん」 部屋がまた開き、内海唯花は部屋から出てきて彼に尋ねた。「洗濯機を買ってきましたか?いくらでした?」 「洗濯機二台で十四万だ」 内海唯花は姉の家にある手動洗濯機と比べて、結城理仁が買ってきた洗濯機はそれに見合った値段だと思い、何も言わなかった。 「内海唯花」 結城理仁は彼女がドアを閉めようとした時に彼女を呼び止めた。 「君のお姉さんのことだが、心配しなくていい。君たちの負担が大きいなら俺に言ってくれ、君のお姉さんに少しお金を貸しておくから」 内海唯花は感激して言った。「結城さん、どうもありがとうございます。修理代がいくらかわかってから姉とお金が出せるか相談してみます。もし、足りなかったら姉の代わりにあなたからお金を貸してもらいますね」 結城理仁とは結婚してまだ数日しか経っておらず、お互いのことはまだよくわかっていなかったが、姉が困っている時に彼がこのような態度をとってくれたことに内海唯花はとても感激した。 「ああ。もう遅い、早く休んだほうがいい。あまり悩むことはない、必ずどうにかなるさ」 「結城さんも早めに休んでくださいね。おやすみなさい」 内海唯花は彼におやすみの挨拶をした後、部屋へと戻った。 結城理仁は少しリビングのソファで休んだ後、起き上がって自分の部屋へと戻った。 ドアを閉めると、携帯を取り出して東隼翔に電話をかけた。 「隼翔、もう寝たか?」 東隼翔は笑って言った。「まさか、俺は基本、夜中の二時か三時くらいにしか寝ないよ。どうしたんだ?酒のお誘いか?俺の家に来いよ、コレ
「大した傷じゃないから保険使うのもめんどくさくてさ。理仁、急になんでこんなこと聞いてきたんだ?」 結城理仁は少し黙ってから口を開いた。「その車にぶつかった女性は、俺のばあちゃんの命の恩人のお姉さんなんだ。あの姉妹はお互い助け合って生きてきたらしい。その女性は今は専業主婦で収入がないんだと。おまえの車に傷をつけてしまってから、金が足りないんじゃないかと困っているんだ」 東隼翔「......あ、こんな偶然が?結城おばあさんの恩人の姉さんって、おまえどうやって知ったんだ?」 結城理仁は嘘をついた。「うちのばあちゃんは恩人の彼女のことがすごく気に入っているんだ。よく彼女に会いに行ってて、その恩人の様子がおかしかったから気になってどうしたのか聞いたらしい。それで恩人のお姉さんだとわかったんだ」 「まじか、その恩人とやらのお姉さんの名前は?なんていうんだ?」 「佐々木唯月、旧姓は内海だ。恩人の名前は内海唯花」 「唯花と唯月か、確かに姉妹って感じだよな。おまえんとこのおばあさんの恩人の姉さんなら、修理代は必要ないさ。たったの数十万なんかどうだっていいんだ。ただ俺は被害者だからさ、寛大な態度で相手に一円も出させないようじゃ、彼女に今回の件が教訓にならないだろうと思ってな。もしかしたら、次また他の誰かの車にぶつけてしまうかもしれないだろ」 東隼翔は有名な東家の四男で今年三十五歳になった。この家の継承者ではないが、自分の力で東グループを創立し、傘下の会社も少なくなかった。間違いなしの億万長者だ。 彼は豪快でさっぱりした性格の持ち主で義理堅い人物だった。若く血気盛んな頃は各地を放浪していた。顔にあるナイフでついたような傷はその時についたものだった。美容外科に行くのも面倒くさく、顔に刀傷があればもっと威厳があるだろうと言っていた。 「彼女に教訓を与えたいって言うなら、修理代によっては彼女に弁償してもらえよ。もしかなりの金額になるなら俺のばあちゃんの恩人に免じて、少し安くしてやってくれ」 二十万程度、結城理仁や東隼翔のような金持ちの男にとっては、お金と呼べるものではなかったのだ。 佐々木唯月が仕事がなく収入がないからといっても、二十万くらいであれば人から借りて返済できない額ではなかった。 「大した金額じゃない、ただ二十万くらいさ。じゃあ、彼女に
この夜、内海唯花は寝ていても落ち着かず、夢ばかり見ていた。次の日目が覚めると、元気がなかった。 以前と同じように、彼女は昨晩洗濯機で洗っておいた服を干しにベランダへ向かった。 その時初めてベランダにはすでに彼女が服を干すための洗濯竿が準備してあって、広々したベランダはいっぱいの花で埋め尽くされていることに気がついた。多くの花は咲いているか蕾をつけているものだった。花の大きさの大小にかかわらず、花びらがたくさんついた八重になっている豪華な花だった。 内海唯花の関心は直ちにこの花たちに注がれた。 彼女は服を干した後、昨日の朝買ってきた花用の棚を組み立てて、その上に並べた。 しばらくの間花たちをいじくり回し、ふと誰かの視線を感じ、パッと頭を上げると結城理仁の漆黒の瞳と目が合った。彼の目つきは鋭く冷たかった。 結婚して数日過ぎていたおかげで、内海唯花は彼のその冷たい様子にはもう慣れてしまった。 「結城さん、おはようございます」 内海唯花は挨拶をすると、すぐに彼を賞賛して言った。「結城さん、お花すごくきれいです。いい仕事するじゃないですか!」 彼にお願いした事を、彼はパーフェクトにこなしてくれたのだ。 結城理仁は低い声で言った。「今後は君が解決できない事があれば、俺に言ってくれ」 彼女がお願いすることは、彼にとっては朝飯前なのだ。 「わかりました」 内海唯花は嬉しそうにニコニコしながら、再び花をいじるのに専念しはじめた。 「あの、どの花屋で買ったんですか?花たちすごく丁寧に育てられていますよ」 結城理仁は「いろんな花屋に行ったからな。名前はよく覚えていない」と嘘をついた。 内海唯花はそうですかと言っただけで、それ以上は聞かなかった。彼がしてくれたことが満足でそれだけで十分だったのだ。 「今日は朝ごはんに何を買ったんだ?」 彼にそう聞かれて、内海唯花は朝ごはんのことを思い出し、慌てて携帯を取り出して時間を見ると、もう七時を過ぎていた。彼女は立ち上がり、申し訳なさそうに彼に言った。「結城さん、今朝は朝ごはんのことをすっかり忘れていました。今買いにいったら間に合いますよね。顔を洗って買いに行ってきます。何が食べたいですか?」 結城理仁は淡々と答えた。「好き嫌いはないから、君が選んでくれ」 彼に好き嫌いが
「結城さん、どうしましたか?」 内海唯花はベランダから家の中にいる彼を見て言った。 結城理仁はあのドーナツを食べながらベランダに出てきて言った。「君のお姉さんの事なんだが、あまり心配しなくていい。ぶつけたあの車の持ち主はうちの会社のある重要な取引先の車だ。昨晩思い出して東社長に連絡をしたんだ。彼があの車の修理代は二十万くらいだろうと言っていた」 彼女は今土いじりをする元気はあるようだが、結城理仁は彼女の精神状態はいつもより悪いことに気づいていた。明らかに昨夜よく眠れなかったのだろう。その原因はもちろん彼女の姉の件だ。 内海唯花は顔を上げて彼を見つめた。彼が揚げドーナツを普通に食べているのを見て、心の中で彼は特に好き嫌いはなく手がかからない人だと考えていた。しかしその口は彼にこう尋ねた。「どうやって会社の顧客の車だと確信したんですか?」 彼女の姉もその車の持ち主の名前を知らなかった。ただ相手が背が高くて勇ましい人で、顔に刀傷があり、人を怖がらせるような容貌の人であるとしか分からないのに。その怖さに陽も怯えてしまった。 「昨日の午前、東社長がうちの会社に来て俺が担当したんだが、その時彼の車に傷があるのが見えてどうしたのか尋ねたんだ。東社長が子供を連れた女性がベビーカーを押しているときに車にぶつかったんだと説明してくれたんだ」 「昨晩君が俺にこの事を話した時に、まさかとは思ったんだ。それで東社長に電話をして確認してみた。君のお姉さんは佐々木唯月っていうんじゃないか?東社長は君のお姉さんの電話番号を教えてもらって、修理が終わったらまた電話をかけて修理代について話すと言っていたよ」 内海唯花は花をきれいに並べ終わると、立ち上がって背を伸ばして言った。「私の姉は確かに佐々木唯月と言います。ということは本当に偶然が重なったんですね。結城さん、東社長は本当に修理代は二十万くらいだと言っていたのですか?」 二十万なら姉にも出せる金額だった。 「俺が聞いた限り、彼はそう言っていたよ」 内海唯花はほっとした。「ならよかったです。結城さん、本当にありがとうございます」 姉妹二人は修理代がかなりかかるのではないかと心配していた。今修理代は二十万くらいだと知って、内海唯花は太陽がもっと明るく眩しく見えた。 それと同時に、彼女がスピード結婚をし
妹の夫が聞いてくれたということは、おそらく東さんに取りなしてくれたおかげで彼女から全額もらうのではなく、少ない金額になったのだろう。 もちろん、十八万でも今の彼女にとってはかなりの出費だった。この出費を教訓にして今後外では気をつけることにしよう。高級車には、傷をつけてはいけない! 「旦那さんはもうすぐ帰ってくるんでしょ?」 「うん、明日帰ってくるよ」 「それならよかった。明後日私と旦那は早めに行くわね。あなたが自分でご飯を作るんでしょ?手伝うわよ」 妹と長年ずっと助け合って生きてきた佐々木唯月は、仕事もできるし、社交上手、料理や育児、家事全般も難なくこなせる人だった。ただ今は子供がいて時間がとれないし、給料もないので家で大人しく旦那の言うことを聞いて、専業主婦をやるしかなかった。 姉妹は電話でしばらく日常のことについておしゃべりしてから電話を切った。 「結城さん、毎日夜は残業ですか?」 「何か用があるのか?」 「もうすぐ週末になるので、おばあちゃんやあなたの両親も食事しに来ますよね。うちは物が少なくて寂しすぎます。この二日時間を作って家具を見に行きたくて、必要なものは買ってきたいんです」 結城理仁は黙った。 彼の仕事は本当に忙しく、毎日のスケジュールもパンパンだった。彼女に付き合って家具を買いに行く時間は本当に時間的に難しいかったのだ。 彼が何も言わないのを見て、彼の立場に立って考えてからこう言った。「時間がなければ、私自分で買いに行ってきますね」結城理仁は頷いて「この家の女主人は君だ。家の事は君が主体になって決めてくれていい。大きな問題は俺に言ってくれればいいから」と言った。実際に彼には家の細かいことに気を配るような時間はないのだ。 「わかりました。明凛に今日は店に行かないで買い物に行くと伝えます」 彼らの家は、ここからスタートだ。 結城理仁は何も言わなかった。 彼を身を翻し部屋へと戻っていった。 そしてすぐに部屋から出てきて内海唯花にひとこと言った。「仕事へ行ってくる」 「車の運転気をつけてくださいね」 内海唯花は心のままに念を押して言った。 結城理仁はあのまだ食べていない肉まんと豆乳を持って出ていった。 彼は内海唯花にお金持ちではないことを装うために買った車を運転してトキワ
昨日の夜、内海唯花はわざわざ結城理仁が帰ってくるのを夜遅くまで待って、土曜日の朝一緒に市場へ野菜を買いに行くことを約束した。昨晩おばあさんに電話をかけて確認し、今日来るお客さんは二つか三つテーブル分必要になることを知った。結城理仁の弟たちも来るからだ。 彼女と結城理仁はもう結婚したのだから、結城家の嫁になった。両親だけでなく結城家の同世代の者たちにも兄嫁に会わせて、お互いを知っておかないといけないとおばあさんは言いたいのだ。 今日買わなければならない食材はとても多く、彼女一人では持って帰ってこられないだろう。それで結城理仁に車を出してもらえば、余分に食材を買っても持って帰る心配はしなくて良いのだ。 あの日と同じように、朝六時に結城理仁は内海唯花のLINE電話に起こされた。 寝起きが特に悪い結城理仁は、もはや修行僧にでもなれるほど本気で耐えては耐え、内海唯花に怒鳴りつけたい気持ちを抑えていた。 「結城さん」 内海唯花の澄んだその声は聞くと非常に心地よかった。 結城理仁は眉間を押さえ、低い声で言った。「あと十分時間をくれ」 「わかりました。今朝食を作っていますから、後で食べてくださいね。食べ終わったら買い物に出かけましょう」 結城理仁「......一体何時に起きたんだ?」 今は朝六時なのに、彼女はもう朝食を準備し終えていた。 「五時過ぎですね」 一人で二、三テーブル分の料理を作るのだから、かなりの時間がかかるため彼女は早起きするしかなかった。そうでないと間に合わないからだ。 結城理仁はそれ以上は何も言わず、黙って電話を切った。 家長に会うことを彼女はとても重要視していた。今日来るのは彼の家族たちだ。彼女のこのような態度に彼はとても満足した。 十分後。 結城理仁は普段着で食卓に現れた。 彼女はまだ食べている途中で彼を見て微笑んで言った。「私が作った味噌汁飲んでみてください。姉はとても美味しいって言ってくれるんですよ」 結城理仁は自分の朝食を見ると、とても美味しそうで食欲をそそられた。彼はせっかく作ったのだからとその朝食を食べてしまった。確かに美味しかった。彼女の料理の腕前は確かなものだ。 彼は本当に美味しいものが食べられて幸せだ。 彼女の手作りの朝食は外で買ってきたものより安心だ。 内海唯
二時間かけて市場を回りようやく帰ってきた。 出かける時は高級車に乗りあまり歩き回らない結城理仁だが、普段体を鍛えているし、武術を嗜んだこともある。しかし、内海唯花と二時間も市場で歩き回り、荷物まで持たされてさすがに疲れ果ててしまった。 まだ処理し終えていない書類や、延々と続く会議をやることになっても、女に付き合ってショッピングや市場を回るのはもうご免だ。 車を止めて、内海唯花が車から降りる前に結城おばあさんから電話がかかってきた。 「唯花ちゃん、あなたたち家にいる?私たちは下にいるわよ」 内海唯花は笑みを浮かべて言った。「おばあちゃん、私たち市場から帰ってきたばかりなの。そこでちょっと待ってて。すぐ行くから」 「あなた理仁くんと一緒に市場へ?」 おばあさんはそれを聞いて楽しそうだった。心の中であのツンツンして偉そうなお孫様が城下町におりて内海唯花と一緒に市場を回るなんて。 彼に一般庶民を演じさせるのもまた良いことだ。彼に普通の人の生活というものを経験させよう。 「うん、買い物に行ってきたの」 「理仁くんは普段仕事で忙しいから、この歳になっても市場を回ったことなんてないのよ。彼を連れてもっと出かけてちょうだい。唯花ちゃん、理仁に荷物を持たせなさい。彼は力があるわ、あなたは疲れないようにね」 結城理仁「ばあちゃん、一体どっちが本当の孫なんだ?」 内海唯花は車を降りて、片手で携帯を持ち電話をしながら、もう片方の手で後部座席のドアを開け、中から折りたたみ式のカートを引っ張り出した。表情で結城理仁にカートを開くように合図した。 「おばあちゃん、安心して、私は全く疲れてないから」 このカートでは買ってきた物を全て入れることはできなかった。彼女が買った野菜や果物はたくさんあって、載せられなかった。残りは結城理仁が手に持つことになり、彼女は最初から最後までとても楽ができ、ちっとも疲れてなんかいなかった。 「おばあちゃん、私たち今からそっちに行くわ」 「わかったわ、後でね」 おばあさんは自分から電話を切った。 内海唯花は携帯をズボンのポケットに押し込み、カートを押しながら両手が塞がっている結城理仁に言った。「結城さん、行きましょう。おばあちゃんたちが下で待っています」 結城理仁と彼女は肩をならべて歩いていった
暫く彼に見つめられて、内海唯花はようやく何かを悟り、彼に探るように尋ねた。「結城さん、あなた、もしかして私に顔を洗ってもらいたいとか考えてるんじゃないよね?」「俺は君を助けるために、こうやって顔を黒く塗ったんだけどな」それはつまり、これを洗い流すのは彼女の役目だということだ。内海唯花は口をぽかんと開けて、何も言えなくなった。彼女はなんだかこの男が少し恥もなく、だだをこねるようになってきたと思った。「わかった、私が洗ってあげるわよ。まったく何が私を助けるために顔を黒く塗ったよ。むしろもうその顔全部黒に塗りたくって、まっくろくろすけにでもなってしまえばいいのよ」内海唯花はそう言いながら、彼を引っ張ってキッチンのほうへ向かっていった。結城理仁は彼女に合わせて二歩進むと、足を止め、眉間にしわを寄せて唯花に尋ねた。「なんでキッチンに行くの?」「キッチンに水道があるじゃないの。あなたの部屋は立ち入り禁止区域だし、私に入るなって言ってたじゃない。キッチンで洗わないなら、一体どこでその顔を洗ってあげればいいの?それか、ここで待ってて。タオルを濡らしてきて拭いてあげる。それで綺麗に落ちないかやってみてもいいわ」結城理仁「……」彼はどうやら自分で運んできた石が、うっかり自分の足に落ちて痛がっているようだ。足の骨まで見事にポキッと折れてしまった。自業自得だ、身から出た錆。少し黙った後、彼は淡々と言った。「俺の部屋の洗面所には普段使っているメンズ用の洗顔フォームがあるから、それでもインクは落とせるだろう」そう言って、彼は自分の部屋のほうに向かっていった。部屋のドアを開けた後、彼は唯花に顔を向けて指示を出した。「早く来て顔を洗うのを手伝って!」内海唯花は「あら」と一言漏らし、部屋のほうへ向かいながら言った。「結城さん、あなたが入れって言ったんだからね。私が勝手に入っていったんじゃないんだから。今後喧嘩した時に、今日のことを持ち出して私を責めたりしないでよ。私はずっと契約に書かれている通りに、約束を守ってやってるんだからね」結城理仁は顔を曇らせ、彼女の前まで近づくと、堪らず彼女の額にデコピンをお見舞いした。「俺と喧嘩するのを望んでいるのか?」「付き合いが長くなれば、どうしたって喧嘩くらいするでしょ。喧嘩をしない夫婦なんてこの世にい
姉が妹より結城理仁のことを信じているのは、それはまあいいのだ。しかし、彼女が小さい頃にこっそりと荒神様に捧げたお神酒を飲むという醜態を話してしまったのだ。結城理仁は内海唯花を見つめていた。その目線に唯花は穴があったら入りたいくらいだった。「お姉ちゃん、それって何年前のことよ。今それを持ち出して話すなんて」しかもそれを結城理仁の目の前で話された。唯月は笑って言った。「あの日あなたはご飯を食べ終わった後、ベッドに横になって一日中寝ていたわ。お酒に弱いのははっきりしているのに、飲むのが好きなんてね。飲んだらまったく起きやしないんだから。結城さん、覚えておいてね。何かお祝い事のある日以外は、この子にお酒を飲ませちゃだめよ」結城理仁は口を閉じてにやりと笑ってそれに返事した。「義姉さん、しっかり覚えておきますよ」唯月が昔の思い出を話し、三人は笑い合った後、この日に起こった辛いことが一気に流されていった。離婚するなら離婚するまでだ。別に大したことではない。地球は別に誰か一人がいなくなっても、止まらずに周り続ける。佐々木俊介と別れても、唯月は今までどおりしっかりと生きていけるのだから。ホテルを出て、唯月は上を仰ぎ暗い夜空を眺めた。そして後ろを振り返り、妹夫婦に呼びかけた。「行きましょう。今日は私が夜食をおごるわ。いえ、朝食ね。私の独身回帰祝いをフライングでしちゃうわよ」この時すでに明け方の五時をまわっていた。内海唯花と結城理仁はお互いに目を合わせ、姉の誘いを受け入れた。三人は朝食を食べに行き、結城理仁が車で義姉を久光崎のマンションまで送った後、妻を連れて帰宅した。家に着いた頃には、太陽がもう昇っていた。「結城さん」結城理仁が彼女を見た時、内海唯花はとても嬉しそうに言った。「結城さん、今日はどうもありがとう」結城理仁は一歩踏み出し内海唯花の前にやって来ると、手を伸ばし彼女の肩に手を置いた。彼女が彼を見上げた時、彼の懐の中に引き込まれ、ぎゅっと抱きしめられた。手を緩め自分から彼女を少し離すと、彼女のほうへ目線を下に向け、優しい声で言った。「俺たちは夫婦だろ。当然のことをしたまでだよ」内海唯花は暫く彼と見つめ合ってから、突然彼の首に手を回し、自分から彼にキスをした。その時の結城理仁は以前のような俺様的な態度で
この夜以降、彼女はもう二度と佐々木俊介のせいで傷つき、涙を流すことはなくなるだろう。「陽ちゃん」唯月は息子のことを思い出した。そしてその瞬間、緊張が走った。「お姉ちゃん、ベビーシッターの清水さんにお願いして陽ちゃんを見てもらってるわ。陽ちゃんなら朝までぐっすり眠ってるわよ、きっと」佐々木陽はやんちゃな時は本当にやんちゃで、遊び始めると床が彼のおもちゃで埋め尽くされてしまう。しかし、おとなしい時は本当におとなしい。特に夜寝ている時だ。どこか気持ちが悪いところがない限りは夜が明けるまでぐっすりと眠って目を覚ますことはないのだ。唯月はそれを聞いてようやく安心した。「唯花、結城さん、あなた達はどうやってここがわかったの?」息子の心配をする必要がなくなり、唯月は心に余裕ができて思いつきこう尋ねた。内海唯花は少し姉をとがめるように言った。「お姉ちゃん、私たち姉妹でしょ。お父さんとお母さんがいなくなってから、私たちは十五年も助け合って生きてきたじゃない。何か困ったことがあったら相談してた。でも今日は、私を遠ざけようとするなんて、私が安心できると思う?理仁さんの友達があいつの不倫の証拠を集めてくれたでしょ。彼の情報網はとてもすごくて、彼に聞いたらあっという間に佐々木俊介のいる場所がわかったの。それで、私は理仁さんと一緒に急いでここまで来たのよ。お姉ちゃん、これからはどんなことでも、絶対に私に教えてよ、わかった?一人で突っ込んでいくようなことはしないで。私はもう大人よ、あの頃みたいにお姉ちゃんの陰に隠れて守ってもらうような小さな女の子じゃないんだからね」唯月は暫く沈黙した後、言った。「さっきあなたを止めたのは、あいつらがわざと傷害罪だとか主張して、あなたに医療費を賠償金として渡せって言ってくるのが怖かったからよ。いくらあいつらが私にひどいことをしたとしても、あなたまでその中に入って殴ったりしたら、法的にも言い訳ができなくなってしまうかもしれないわ。私があいつらに手を出すのとは意味が違うの。あいつら二人が私にしてはいけないことをしたんだから、あの二人はきっと後ろめたい気持ちになるはずでしょ。私に殴られようが罵られようが、おとなしく黙ってそれを受け入れるしかないわよ。それで私にお金を請求するなんてことできないでしょう。唯花、お姉ちゃんの
唯月は妹に向けて首を横に振って、その行動を制止させた。唯月と佐々木俊介がどう殴り合いをしても、それは夫婦同士の喧嘩で家庭内でのことだ。佐々木家の人間がこの間と同じように彼を家で静養させるだけの話になる。唯月が成瀬莉奈を殴るのは、妻が浮気相手を懲らしめただけで、世間からは唯月はよくやったと思われるだけだろう。成瀬莉奈のほうは心穏やかでなくても、唯月にどうこうすることはない。しかし、妹が手を出すとなるとまた話は違ってくる。妹が佐々木俊介と成瀬莉奈をボコボコにして姉の仕返しをしようとしたら、あの佐々木家のことだから、妹を訴えて医療費を請求してくるはずだ。成瀬莉奈も同じようにすることだろう。唯月は妹が弱みにつけこまれて脅される姿など見たくなかったのだ。唯月は妹をしっかりと引き留め、小さい声で言った。「お姉ちゃんを信じて、自分で解決できるから」妹夫妻が彼女のために、今の状況を録画しておいてくれるだけで十分なのだ。「俊介」唯月は涙を拭い彼に尋ねた。「あんた、本当に私と離婚するつもり?」俊介は強い口調で言った。「そうだよ、俺はお前と離婚する!」「陽はまだ小さいのに、無情にも私と息子を捨てるってこと?」佐々木俊介の瞳には少しのためらいの色もなく、冷たい声で言った。「唯月、先に帰ってろ。俺たち少し落ち着いて、二日後の土曜日になったら、また離婚について話し合おうじゃないか」唯月は悔しそうに歯を食いしばって、成瀬莉奈を睨みつけていた。そこへ佐々木俊介がまた成瀬莉奈の前に立ちはだかった。唯月がまた発狂して彼女に襲いかかるのを警戒してのことだ。「お姉ちゃん、ここは私が……」「唯花、行きましょう!」佐々木唯月は妹を引き留め、あのクズ人間二人をぎろりと睨みつけて言った。「俊介、土曜日の離婚話、忘れるなよ!」言い終わると、彼女は妹を連れて部屋を出ていった。部屋を出てから結城理仁を見ると彼女は小さな声で「全部録画できた?」と尋ねた。彼女がクズ男とアバズレ女に喧嘩を売っている最中、妹の夫が撮影しているのに気がついていた。結城理仁は頷いた。「行きましょう」佐々木唯月は妹の手を引っ張り先頭に立って歩き出し、結城理仁も黙ってそれに続いた。そして、三人はエレベーターに乗った。すると、唯月のさっきの勇猛な様子は消え去
内海唯花はすぐに部屋の中へ突入した。佐々木俊介はすでに我に返り、矢の如く部屋の中へと飛び込んでいった。そして成瀬莉奈の上に馬乗りになっていた唯月を蹴り飛ばした。部屋の中に突入した内海唯花は相当に怒りを爆発させて、彼女も一発蹴りをお見舞いした。空手を習っていた内海唯花は、あの内海陸の不良たちとやり合った時も優勢に立っていた。そんな彼女が唯月を蹴飛ばした佐々木俊介に力いっぱい蹴りを食らわせたのだから、彼も床に倒れ込んでしまった。「お姉ちゃん」内海唯花は姉のところまで行き、彼女を抱き起した。佐々木俊介も素早く床から起き上がり、急いで成瀬莉奈を支えて起き上がらせ、唯月姉妹二人に怒声を浴びせた。「唯月、てめえら何やってんだ?」唯月は成瀬莉奈に殴りかかって息を切らせながら、夫の怒声を聞いていた。そして彼女の怒りはまたふつふつと沸き上がり、彼女も怒鳴り散らした。「俊介、こんなことして許されるとでも思ってんの?私はあんたのために仕事を辞めて、家庭を守り、子供を産み育ててきたのよ。それなのにあんたは私を裏切って、こんなアバズレの泥棒猫なんかと一緒にいたくせに、私に何をしてるか聞くわけ?私は今最低な人間を懲らしめているのよ!」そう言って、彼女はまた突進していった。佐々木俊介は成瀬莉奈の前に立ちはだかり、成瀬莉奈にもう暴力を振るわせないというばかりに、唯月と揉み合った。そして口で罵った。「唯月、もうやめろ!言っておくがな、俺はかなり前からお前のことなんて愛していなかったんだよ。お前に嫌悪感を抱くようになってかなり経つ。今の自分の姿を見てみろよ。醜い所帯染みたババアになりやがって。大学まで出たってのに教養はねえのか、羞恥心はどこへやった!」唯月は怒りで笑いが込み上げてきた。彼女は成瀬莉奈を殴ることができないので、重たい一発を佐々木俊介の顔面に食らわせた。「私のこのおばさんの姿はあんたのせいでしょ。あんたこそ、大学まで行ったのに、恥も知らないわけ?その女も大学まで行って、倫理観や道徳心は学ばなかったの?なんでもかんでも学があるだのなんだのの責任にしてんじゃないわよ。世界中の教養ある人たちを汚すのはやめな」佐々木俊介はビンタを食らって、そのままお返しの一発を繰り出そうとしたが、内海唯花が急いで姉を引っ張り、彼のその手は虚空を切った。「あんた
「こんな遅くに、一体誰だよ?」佐々木俊介はぶつくさと言いながら、機嫌の悪そうな顔をしてドアを開けに行った。彼がドアを開けると、ドアの前に太った人影が見え、彼は驚いてしまった。少し信じられないといった様子だった。唯月が本当にここまで来た!彼女はどうして彼がここにいると知っているのだ?夫婦二人は目を合わせた。佐々木唯月は上半身裸の彼を見て、頭の中で彼らの過去十数年に渡る付き合いを考えていた。なるほど、男が女性を裏切るのはあっという間で、すごく簡単なことなのだな。佐々木俊介は我に返ると、すぐに顔を暗く曇らせ、唯月に詰問を始めた。「なんでここにいる?陽は?こんな夜遅くに家で陽の面倒も見ずに、こんなとこまでやって来て……」「俊介、誰なの?あんなに力強くドアをノックしちゃって」佐々木俊介が唯月を責めている途中に、成瀬莉奈がゆったりと現れた。彼女はパジャマ姿で、髪は適当におろしていた。二人がさっきまで激しく愛し合っていたのか、彼女は見た感じ艶っぽい色気を出していて、首にはその痕がくっきりと残っていた。この状況を見れば、馬鹿でも何があったのかわかるだろう。「この泥棒猫!」佐々木唯月は彼女のふくよかな体で、ドアを塞いで立っていた佐々木俊介を押しのけ、電光石火の如く部屋の中へ押し入ると、瞬く間に成瀬莉奈の前に立ちはだかった。そして、成瀬莉奈のロングヘアを掴んで引っ張った。手を挙げ――パンパンパンッ立て続けに成瀬莉奈の顔に四回ビンタを食らわせた。その動作は速く、本当に一瞬の出来事だった。その行動には少しの躊躇いもなかった。「きゃあぁぁぁぁ――」成瀬莉奈は大声で叫んだ。「夫の世話をすると言っておきながら、この卑しい女、あなたの言ったお世話ってこういう意味のお世話だったのね。夫には私という妻がいるのよ。あんたなんかの世話がいると思う?このアバズレ、殺してやる!」佐々木唯月は怒鳴り声を上げながら、成瀬莉奈を引っ掻き殴った。成瀬莉奈はそれに抵抗しようとしてみたが、佐々木唯月に先手を取られて、彼女のその抵抗など唯月にとっては微々たるものだった。佐々木唯月の力は強い。彼女は成瀬莉奈を床へ押し倒すと、彼女の上に馬乗りになって、また何度もビンタを繰り返した。その音はまるで爆竹を鳴らすかのように、パンパンパンッ
佐々木俊介は成瀬莉奈の耳元で低い声で何かを囁き、彼女は瞬時に満面の笑みになった。彼が機転が利く人間でよかった。この時、成瀬莉奈は安心した。彼女が彼と結婚したら、絶対に幸せな生活を満喫できる。もちろん彼女は自分を守る必要がある。彼と結婚した後、彼の給与が振り込まれる銀行カードを管理しなければ。彼は結婚後は家の不動産権利書に彼女の名前も加えると約束していた。自分の望みは全て実現させてもらう。とりあえず、彼女は絶対に佐々木唯月のような惨めな境地にはなりたくないのだった。「唯月に財産を渡さずに追い出すことは、実はとても簡単なんだ」「どうするの?」佐々木俊介の貯金は大した金額ではないが、できれば一円たりとも唯月に分けたくなかった。唯月に渡さなければ、そのお金は全部成瀬莉奈のものになるのだ。「彼女に財産の分与か陽の親権か、どちらかを選択させれば、あいつは必ず陽のほうを選ぶから、一円も渡さず追い出せるさ」成瀬莉奈はそれをきいてとてもがっかりして彼に言った。「あなた、息子の親権を放棄できるの?あの子は佐々木家で唯一の内孫でしょう。あなたがそうでも、昔の考え方であるご両親は納得しないと思うわよ」佐々木俊介「……陽は俺の子だ。もちろんあきらめたりしないさ」成瀬莉奈は甘えた声で言った。「だったら、なんでさっきみたいなこと言ったのよ」佐々木俊介は彼女にキスをして言った。「俺たちさ、早く……君が妊娠して男の子だったら、俺の父さんも母さんも喜んであいつに陽を渡すよ」この時、彼と成瀬莉奈はまだ体の関係を持ったばかりだった。成瀬莉奈はその後、ピルを買いに行って飲んでいて、そんなに早く子供を作る気がないのははっきりとしていた。今のところ彼には陽という息子だけで、佐々木俊介は一昔前の男尊女卑的な考え方を持っていた。だから、どうであれ、彼も陽を唯月に手渡す気などなかった。陽は生まれつき容姿もよく、聡明で可愛い。彼と成瀬莉奈が結婚して産んだ子供がどんな子供なのかは誰にもわからない。佐々木俊介もそんな危険を冒そうなどと考えてはいなかった。もし、成瀬莉奈が産んだ子供が女の子だったらどうする?だから、陽は絶対に彼のもとにいなければならない!「私が女の子を産んだら嫌だって言うの?」「そんなんじゃないさ。君が産んだ子なら俺は大好きだよ。でも、うちの
成瀬莉奈は佐々木俊介の胸に寄りかかり、甘えた声で言った。「俊介、ごめんなさい。電話に出るべきじゃなかったわ。彼女が何かあなたに急用があるのかと思って、うっかり出ちゃったの」「いいんだ、どうせいつまでも隠し通せることじゃないし、遅かれ早かれあいつには教えることだったんだ。伝えるタイミングを見定めるより、成り行きに任せたっていいや。あいつが疑ってるってんなら、帰って直接、正直に話してくるよ」佐々木俊介が成瀬莉奈を悲しませるような真似をするはずがない。彼の心はだいぶ前から成瀬莉奈に寄っていて、唯月にはまったく愛情の欠片も残っていなかった。しかし、両親と息子のことを考えて、ずっと我慢していたのだ。そうでなければ、唯月のことなどとっくの昔に追い出していたところだ。「俊介、もしあなた達が離婚するなら、あの女があなたの財産を半分持って行くってことになるの?」成瀬莉奈は佐々木俊介の財産の半分を佐々木唯月に持って行かれるのは嫌だったのだ。彼女は唯月には何一つ渡すことなく、裸同然で去って行かせたかった。佐々木唯月が仕事を辞めてから数年、子供もまだ小さく、2歳過ぎだ。彼女がまた職場復帰したくても、恐らくそれは難しいだろう。離婚して何もかも失った後、成瀬莉奈は唯月のどん底に落ちぶれた様子を拝むことができるのだ。もしかしたら、唯月は子供を背中におぶって、街中で乞食になっているかも。佐々木俊介は冷たく笑って言った。「あいつがよこせと言っても、俺が大人しく渡すと思うか?結婚してから、あいつはこの家のために一円だって稼いでないんだ。家は俺が結婚前に買った財産だし、結婚してからも俺がローンを返してきた。だから、あいつにこの家を分けてやることなんかないよ。あいつは家のリフォーム代をちょっと出しただけだ。どのみち俺はそのリフォーム代もあいつに払ってやる気はない。もし欲しいんだったら、内装の壁紙でも剥がして持ってけばいいんじゃね?俺の貯金は……」彼が部長になったのも、ここ二年のことだった。収入は以前と比べて何倍にもなってはいたが、普段の出費も増えている。それによく成瀬莉奈に高価な物を買ってプレゼントしているので、彼は稼いだ分からそんなに貯金していなかった。ただ三百万前後といったところだろう。しかし、彼の副収入のほうは多かった。その副業で稼いだお金は、会社
結城理仁は玄関の鍵をかけた後、内海唯花の手を引き、歩きながら言った。「友達に調べてもらった。君の義兄はマニフィークホテルという神崎グループ傘下のホテルにいるらしい。俺は結城グループで働いていて、この二つの会社は犬猿の仲だから、神崎グループの社員に俺だとばれては困る。それで黒ペンで書いたんだよ。これなら、俺だって気づかれないだろう」内海唯花は彼の顔に描かれた先天母斑を何度も見た。切迫した状況の中で、彼はこのような細かいところにも考えが回るようだ。このように細かいところまで考えが及ぶ人だから、結城グループという大企業でエリートをやれるわけだ。内海唯花は今おばあさんが言っていたことを信じられた。おばあさんは当初、彼女の前で結城理仁のことをべた褒めする時に言っていた。結城理仁はとても細かいところに気がつく人間だと。当然、彼が心から優しくしようと思った時に、彼のその細かい気配りが至る所でお目見えするのだ。「後で帰ってきたら、水と石鹸でしっかり洗ってね」内海唯花は本屋兼文房具店を営んでいるから、皮膚についたペンのインクの落とし方をよくわかっているのだ。正直に言うと結城理仁は帰ってきたら、内海唯花に顔についているインクを落としてもらいたいと思った。その言葉が口元まで来て、彼はまたそれを吞み込んでしまった。そんなことを言う勇気がなくて、口に出せなかった。そんなことではおばあさんから「あんたその口はなんのために付いているのよ?言いたいことははっきり言いなさい!」と言われることだろう。九条悟なんかは「ボス、怖がらずに堂々と口にするんだ!」と言うはずだ。内海唯花夫婦と清水のほうは急いで行動を開始していた。一方、成瀬莉奈のほうはというと、佐々木唯月からの電話を切った後、浴室のドアをノックしに行った。佐々木俊介がドアを開けると、彼女はその中に入っていった。暫くしてから、二人は浴室から出てきた。彼女は佐々木俊介に抱きかかえられて出てきた。その美しい顔には恥じらいの色がにじみ出ていて、バカでも彼らが浴室の中で何をしたのか想像に難くない。キングサイズベッドに横になり、佐々木俊介の胸に抱かれた成瀬莉奈は突然口を開いた。「俊介、言うのを忘れてたけど、さっき奥さんから電話がかかってきて、さっさと家に戻って来いって怒鳴り散らしていたわよ。私が